町会の歴史
本町一丁目の歴史
川口市はその昔、鎌倉街道中道(なかつみち)「大奥道」とも云われていた街道の道筋にあり、入間川(現在の荒川)のほとりに位置していた一僻地であった。鎌倉から平間郷(神奈川)を通り、多摩川を渡り茂原郡から豊島郡に入った武蔵野台地の東緑を十条まで北上して、岩淵宿に到り入間川(荒川)を渡り自然堤防を越すと小川口に出る。
義経記(ぎけいき)によると、治承4年(1180年)兄頼朝の挙兵の報を受けた源義経は、頼朝の軍勢に合流するため、奥州平泉からはるばる駆けつけ、武蔵国足立郡小川口に着いた時、その軍勢は85騎とある。
川口宿の荒川寄りの小流に掛けられていた土橋が鎌倉橋で、現在川口市南中学校の南のスーパー堤防の下に位置し、土橋の面影はなく現在の本町一丁目(通称本一商店街)南角の小公園に記念碑があり、その名残をとどめている。※下記画像1参照
岩淵寄りから荒川の渡船場(新荒川大橋より若干下流)を渡り川口宿の町並みに入る手前に用水路が道を横切っており、そこに鎌倉土橋が掛かっていた。その土橋を渡り、荒川水除堤を越えると川口宿の町並みへ入る。
江戸時代交通網が形成されていった中で、江戸と日本各地を結ぶ街道「五街道」に日光御成道があった。日光御成道(通称日光御成街道)とは、江戸本郷追分(東京都文京区)で中山道から別れ、岩淵宿(東京都北区)・川口宿・鳩ヶ谷宿(川口市)・大門宿(浦和市)・岩槻宿(岩槻市)を経て葛飾郡上高野村(幸手市)で日光道中に合流するおおよそ12里(約48 km) の街道をいう。
川口宿は徳川家康が江戸に幕府を開いてからは、日光御成道の駅亭として発達してきた街である。南の方江戸へ三里十五町、北の方鳩ヶ谷宿へ一里十五町とあり、川口宿の町並み(現在の本一商店街 ※下記画像2参照)は三町半(約378 メートル) 両側に宿場の家並みが続く、宿内には鋳物師を始め、食売旅籠屋や鍋、釜や食料品、日用品、雑貨を売る者がいて、鋳物師は鍋、風呂釜、釜、鉄瓶の類を製作して江戸へ商う。町の4境、東は芝川を隔て元郷、十二月田の2村に、西は飯塚村、南は荒川があり対岸は豊島郡、袋、岩淵、下村の3村、北は横曽根に接し、東西八町半、南北13町余、また南の方荒川を越えて岩淵側に飛び地があり、川口宿と岩淵宿の境を示す傍示杭が立っていた。
明治四年の廃藩置県によって川口塾は埼玉県に属し、同22年町村制施行により川口町と呼ばれ大正14年永瀬庄吉氏が名誉町長に就任すると同時に、中村周治郎が公進会より推され名誉助役となり、大川口市建設の基盤を打ち立てるため隣接町村合併に意を注ぎ、一心一体となり町長を補佐した。
昭和四年川口政交会が創立、会長に岩田三史が推挙され政治的方面より当市の発展のため貢献された。町会制度が始められたのはこの間のことで、本一に本和会(会長永瀬新三郎氏)、本二に中央会(会長増田静次氏)、本三に親交会(会長大熊武次氏)等がそれぞれ責任者として地区の発展に努力されてきた。昭和8年4月1日に隣接横曽根、青木、南平柳の3村を合併して市政がひかれ、町名変更整備により本和会、中央会、親交会が一つになって本町一丁目となった。
昭和8年5月市議会議員の選挙が行われ、永瀬寅吉氏、竹ノ谷才次郎氏等市会議員に当選し、議会選挙により医学博士岩田三史氏(名誉市民第一号)が初代市長に当選し、ここに人口45573人の川口市が誕生した。昭和10年には地元出身、市議会議長の永瀬寅吉氏が三代目市長として就任され、行政手腕を発揮される。
昭和15年4月には鳩ヶ谷町(昭和25年に分離)と芝、神根、新郷の3ヶ村を合併し、昭和31年4月には安行村(昭和32年5月安行の一部草加市へ編入)、昭和37年5月には美園村の廃置分合なり一部(戸塚村と大門地区の北原差間)を編入し、ここに一大産業都市として今日に至った。
昭和56年6月には永瀬洋治氏が地元出身三人目の市長として就任された。町会に於いても岩田三史会長(初代)、中村周治郎町会長と代を重ね、戦時中は町民一致町会活動を推進してきたが、終戦とともに町会制度が廃されたので、本一クラブとして有志による任意の会が組織されて、昭和29年高石市長の時、自治協力会を組織するに当たり、再建、本一クラブの名称のもとに永瀬吉五郎氏が会長として、昭和36年まで全市随一の模範町会として進展。昭和36年6月本町一丁目町会と改名。永瀬光明氏会長となり、その後浅香繁氏、小熊栄氏、永瀬光明氏、宮寺正氏、永瀬昌文氏、五十嵐貞雄氏、池沢勝之氏、前野 勇氏、大谷光布氏、田島邦芳氏と町会長が引き継がれ、永瀬久光氏が現町会長として現在に至っている。本町一丁目は川口市発祥の地であり、町会史は市政の沿革を現示すと言っても過言ではない。
平成4年4月には、かねてより町会会員一同の念願であった町会会館が、市の好意により本町公団一階に「本一コミュニティセンター」※下記画像2参照として開設され、会員の親睦活動や生涯教育の場として数多く利用されているが、そのコミュニティーセンターが入居している本町公団も令和8年に取り壊しが決定しており、現在移転先の候補地を選定中である。
※左より画像1「鎌倉橋の碑」 画像2「現在の本一商店街」 画像3「本一コミュニティセンター」